11/1(木)、ワールド・フォーカス『それぞれの道のり』上映後、ブリランテ・メンドーサ監督、キドラット・タヒミック監督、俳優のカブニャン・デ・ギーアさんをお迎えし、Q&A が行われました。
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石坂PD(司会):つい先日、キドラット・タヒミック監督はナショナル・アーティストという大変すばらしい賞を国から受けられたということで。おめでとうございます。何かその受賞について、コメントございますか?
キドラット・タヒミック監督:私は静かに生活、活動している映画作家です。北部に住んでいます。私の名前は、キドラック(稲妻)、タヒミック(静か)、その名の通りなんですが、今回、大統領にお会いして、この賞を受けるにあたり、静かな生活が一変しました。「自撮りしていいですか?」とお聞きしたのですが、大統領は微笑んでくださいました。
石坂PD:このオムニバスフィルム、プロデュースから関わっておられたブリランテ・メンドーサ監督に、この作品ができた経緯を伺いたいと思います。
プリランテ・メンドーサ監督:実は他の2人の監督と、ずーっとコラボレーションしたいという気持ちはありました。皆さんご存知かもしれませんが、実は『アジア三面鏡』で他の監督とのオムニバスを撮るという経験があって。やはりそれからインスパイアされた部分もあって、フィリピンの監督ともぜひ撮りたい、という気持ちがありました。フィリピンの監督で映画を撮るというのは、大事なことだと思います。というのも、今年から来年にかけては、フィリピン映画の100周年記念という大事な年です。ですので、フィリピンの映画にトリビュートという意味も込めて、この作品が実現しました。
石坂PD:それぞれのパートの長さですけども、タヒミックさん、ちょっと長かったような気がするんですけども、それはOKということなんですか?
キドラット・タヒミック監督:実は私、オムニバス作品に参加するのが初めてで、長さに制限があるという概念がなかったんです。そういう認識がなくて。1時間半の脚本を「はい」と提出したところ、短くしなくてはいけないということで。これは難しかったんですが、切りました。
プリランテ・メンドーサ監督:確かに他の私以外のおふたりにとっては、チャレンジだったと思います。ラヴ・ディアス監督が、なんと30分ぐらいの尺の映画を撮り上げてくださった。どうやって、それが可能だったのか、わかりませんが、やってくださいました。
キドラット・タヒミック監督:ラヴ・ディアス監督は、8時間、10時間、12時間ぐらいの作品もありましたかね。ですから、40分以内と聞いて「えっ、それってオープニングショット相当の尺じゃないですか」と思いました。
石坂PD:メンドーサ監督のエピソードは2007年という設定になってますけども、まるでドキュメンタリーのように感じたんですけども。主役のカメラマンが役者さんかなと思ったんですが。それから群衆のシーンとか、あれはちゃんとドラマとして準備して撮影してるんですか?それとも、そういう場にカメラを入れて、半分ドキュメントとして撮ってるんですか?
プリランテ・メンドーサ監督:主役の方と、あと農民のメインの方々はプロの役者さんです。全員で50人ぐらい行進していた方々はエキストラを起用しました。あのシーンはすべて再現、映画のためにしたわけです。このプロジェクト、実際に私たちはミンダナオからマニラまで北上して撮りました。本当は、空港を撮りたかったんですが、90年代以降、新しくなってしまったので、その空港でのシーンは撮れなかったんです。
石坂PD:逆にタヒミックさんのパートは北から南へ行く話ですけど、これはカブニャンさんが旅をするというのは、最初にあって、じゃあ撮ろう、カメラ回そうかとなったのか、それとも、この映画のためにああいう設定のドラマのようなものを作ったのか、それはどっちなんですか?
キドラット・タヒミック監督:私の妻が近くの島の出身なんです。彼女は父の元で修業をしていたフィルムメーカーなんです。そして北部にきて、それが縁で知り合いました。彼女は10年北部にいたので、じゃあ南部にも行ってみようと話していました。ちょうど私たちの長男が小学校に入る時だったので、ちょうど時期がいいかなと考えていました。その小学校というのは森にあり、貧富の差を問わないダバオの小学校だったんです。「じゃあ、思っていたことをこの機会にやろう」となりました。父から兄、私へ受け継がれたジャンバラヤというフォルクスワーゲンのバンに乗って。旅行番組では観光地を巡っていますが、フィリピンの人でも知らない場所や人を訪ねていくロードトリップをしようと思ったわけです。父は、息子たちが移住するという決意を聞いて寂しがっていました。孫たちにも会えなくなるわけですから。
74年製のボックスワゴンで縦断するというのは、なかなか面白いなと思いました。これは物理的な旅ではなくて、心の中の旅路のことです。そうしてたどり着くのは、啓発、心の中で何か啓蒙されたところにたどり着くのはないかと思っておりました。これは1898年に、活動家たちがたどった旅にも重なる部分があります。フィリピンは今でも西側の影響下にあり、ある意味占領といいますか、強くそこに圧力がかかっている部分もあります。ですからアーティストになって、民族の方に会うというそういったことで、象徴的な旅にしたかったんです。
石坂PD:メンドーサさん、トータルとして、100周年万歳とかフィリピン万歳ではなくて、農民の戦いとか先住民の姿色々なフィリピンの姿、真実の姿が映っているものになっていると思うんですけども、そういうところを意図しているのでしょうか。
ブリランテ・メンドーサ監督:実は私のパートの話になってしまうんですが、とあるドキュメンタリーをYouTubeで観たんです。あるフィルムメーカーであり、ジャーナリストでありフォトグラファーである人がドキュメントした旅でした。農民の戦いを描いている作品なんですが、実際には何が起きたか、観て非常によくわかりました。ニュースでは報道されない、実際の農民の姿というのが深く描かれているわけです。ですから個人的な見解をこの映画では描きたいと思いました。
Q:メンドーサ監督にお伺いします。メンドーサ監督にとって、キドラット・タヒミックとはどのような監督でしょうか。
ブリランテ・メンドーサ監督:皆さんご存知ではないかもしれませんが、フィリピンのインディペンデント映画の生みの親、といっても過言でもない方です。77年ベルリン国際映画祭で『悪魔の香り』が上映されて、私もこの作品を観て、今私がやっているようなことを、既に70年代に撮られていた。こういう作品を撮りたい、と思い非常に影響を受けました。当時私はまだ映画を撮ってはおらず、プロダクションデザイナーや、助監督という形で働いていました。フルタイムで監督になった私の作品に影響を与え続けてくださっているような方です。
Q:拝見した映画でも規定文化としては、日本の共通するものがある一方、社会構想、社会システムとしては中南米、メキシコやボリビアなどと通じるものが多いのではないかと思います。実際映画の中でも、中南米映画、メキシコ映画やボリビア映画との共通性もあるかと感じ、オマージュがあるのではないかと思いました。中南米映画に対するご感想、ご意見をいただきたいです。
ブリランテ・メンドーサ監督:私の作品は、南米に触れるとか、触発されたというものではないです。オマージュというならば、ずっと戦ってきた農民へのオマージュですね。この問題はまだ解決していません。ですから、まさにトリビュート、自分たちのものでありながら、それを手にできない彼ら、そうして90年代から続いている戦いに警鐘を鳴らしている、というのが私の作品です。
キドラット・タヒミック監督:南米第3映画という運動がありました。70年代なので、当時私の映画もその枠組みにありました。キューバの思想家から、アートフォームとして生まれたコンセプトです。私自身、中南米の映画をあまり観てはいないのですが、精神として同じものを感じます。ネイティブ、先住民がですね、占領され、植民地化され、文化的アイデンティティを失ったという経緯です。私は映画を作ることで、例えば地球の温暖化や森林破壊に対して警鐘を鳴らしています。そしてそういったネイティブの持つ叡智がまさに今必要とされていることだと伝えたいです。ペルーの映画でインディオの方の叡智が今の世界に必要だ、としている映画を見たことがありますが、まだ現代のフィリピンのリーダーにしてもGNPをあげるなど、雇用促進などありがちな経済成長ばかりに目を向けて、まったくこういった叡智に耳を傾けてくれない。南米のアマゾンの方、北米のエスキモーと呼ばれるネイティブの方々の叡智というのが必要ではないかと私は思います。ブリランテ・メンドーサ監督の作品では先住民ではないかもしれないけれども、農民の方々、まさに土地、土に根付いているという意味で、お互いに私たちそこが共通点だと思うんですね。日本であればアイヌの方々、先住民。そういった点だと思うんですよね、南米と繋がるのは。
石坂PD:ありがとうございます。というわけで、時間が来てしまったようです。
メンドーサさんは今回、審査委員長という大役をやっていいただいたわけですが、締めていただきましょうか。
ブリランテ・メンドーサ監督:まさに明日はですね、受賞作品の発表がありますね。一緒に選考した審査員のメンバー、そして、作品を見てくださった皆さん、関わってくださった皆さん、本当に今年の東京国際映画祭、参加くださってありがとうございます。