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2018.11.12 [イベントレポート]
「漫画の映画化はしないという僕を壊すぐらいの熱量が二階堂ふみから感じられた」10/31(水):Q&A『リバーズ・エッジ』

リバーズエッジ

©2018 TIFF

 
10/31(水)、Japan Now『リバーズ・エッジ』上映後、行定 勲監督をお迎えし、Q&A が行われました。
作品詳細
 
行定 勲監督:ありがとうございます。東京国際映画祭に呼んでいただけたこと、すごく嬉しいです。もうDVDもBlu-rayも出てるんで(笑)。やっぱりスクリーンで観ていただきたいと思っていたんで、これだけの方たちに集まっていただいて感謝してます。ありがとうございます。
 
 
 
※※※以下、内容についての言及があります。お読みの際はご注意ください。※※※
 
 
 
安藤PA(司会):行定さんの作品には、生きていることを実証するための死のような明確さがあるように思ったんですが、いかがですか。
 
行定 勲監督:そうですね。この『リバーズ・エッジ』は、自分たちは、人はどう生きて行くのかについての物語だなという風に漫画を読んでいてもすごく感じていたし、でもそれを明確にしないですよね。岡崎京子さんは決して明確にはしてないんです。自分たちがこの時代をどう生き延びていくかって、そこはウィリアム・ギブソンの詩の中にも出て来るんですけど。
 
安藤PA:「僕らの短い」……
 
行定 勲監督:っていうやつね。どう生き延びるかっていうのがやっぱりすごくテーマになってるなって思っていたし、僕自身が死を描くのは常に、例えば自分の身近の中の死があると、そこに向き合った時、自分はこれからこの死んでった人たちから取り残されて、この時代をどう生き延びていくか、生きて行くかっていうこと、要は死を描くっていうよりは生を描くっていうことですね。だから、死っていうのが対比的に目の前に横たわっていた方が明確になるというかね。
 
安藤PA:なるほど。
 
行定 勲監督:岡崎さんは僕が10代後半、20代前半ぐらいから活躍されていましたけど、彼女の漫画を見たり、特に『リバーズ・エッジ』はそこを自分自身に突き付けられたっていうかね。そういう意味ではすごく影響を、なんだろうDNAレベルでなんか刷り込まれてるというかね。だから、そういう漫画を映画化するなんて、かなりおこがましいというか、なんか汚してしまうんじゃないかという恐怖はあったんです。でもまぁ、他者がやる『リバーズ・エッジ』を観るよりは、自分がやって、それがどういうことだったのかってことを自分としては確かめたかったっていうのはありますね。
 
安藤PA:寺山修司さんが、人は半分、死体で生まれて、完全な死体で死ぬっていう言葉を残しておられてね。いろんな意味合いで僕は解釈してたけど、『リバーズ・エッジ』を観た時に、そうだよねっていう気がしたんです。つまり、完全なるものを死体として描いてる。自分が生まれた時は半分死体で生まれてきてて、完全なものになる過程の中で、完全なものになってない欠落した、逆に言うと、生きてるということを確かめるためには、完全なものを見て安心するという、そういう関係なのかなぁなんて思ったんですがね。
 
行定 勲監督:撮影しているときも不思議な感じでした。ミイラっていうか死体を作ったわけですよね。それはすごく重要な出演者ですけど(笑)、それに、向き合うってなった時に、人はここを目指すんだなっていうことを感じました。
 
安藤PA:なるほど、人はね。
 
行定 勲監督:ここを目指すんだって思った時に、目標っていうか、救われてる感じもするんですよ。一番やばいのは想像で、死っていうものを、死ぬってことが自分の想像の中で行き着くところだっていう風に考えると、生きていなくたっていいじゃんって考えてしまうのが一番やばい。
 
安藤PA:やばいですよね。
 
行定 勲監督:とどのつまり、生きてることがつまんないことのように感じるとか。そうじゃなくて、結果どんなことがあっても人はここに行き着くんだなと。事件に巻き込まれて、ちゃんとした葬られ方をしていない死体と向き合った時に、ここを目指す、ちゃんと報われてても報われてなくても、結果ここに行くんだっていうのが、若い時は思ってたんですけど。やっぱりですね、50歳近くなってくるとなんかそういうのもわかるというかね。そういう意味では、僕は20代の頃に『リバーズ・エッジ』をある種どこかでちょっとわからないというか、自分の想像が及ばないところのすごさを感じてたことが非常に実感できた形で撮影をしていたなと思います。
 
安藤PA:この作品を今、観せてもらうことによって、非常になにかを突き付けられたような、これは今だよねっていう感覚を持ったんですけれども。つまり、今おっしゃっていた、生きてることを実証するのっていうのは、生きている間は、例えば僕と行定さんの間の関係性とか、彼らにとっては彼らのそれぞれの関係性の中でしか、自分が生きているという証明にならない、その時に死体というものがそこにもうひとつあった時にハッキリと自分が存在している、生きてるということが実感できるという、それって実は今だよなって気がしたんですね。これは、スタンダード・サイズで撮ったことと関係性がありますか?
 
行定 勲監督:90年代を意識したんですよね。すごく90年代って何なんだろうなぁと思った時に、この『リバーズ・エッジ』って色々90年代を想像すると非常に予言的な漫画だったなぁと。この『リバーズ・エッジ』が出版された翌年に、阪神淡路の大震災が起こって、それでその直後にオウム真理教の地下鉄サリン事件が起こるという。あの頃の自分がまだ20代前半だったですけど、やっぱり日常の中に死っていうものが本当に入り込んでくるんですよ。しかも想像もしない形で。目の前に死というものがこう介在するっていう。で、その時に初めてなんか意識するんですね。自分たちでこれをどう生き延びていくかっていう言葉が、非常にリンクしてくるっていうのがあったんですよ。あの時代ってじゃあどうだったかなって言ったら、やっぱり何だろう、いろんなものに無関心で、無関心な時代だって言われていましたよね。生きること死ぬことすらあまり考えないで、目の前にあるものにこう向き合うだけっていう。でもそれがなんかこう、ちょっと閉塞感と繋がってるっていうか、もっと広い世界を見ればいいのに、なかなかその余白が感じられないっていうか。そういう意味では、スタンダードにするっていうのは、なんかワイドでいろんなものの情報があるっていうよりは、閉じ込めちゃって、人のプロフィールっていうかワンショットがきっちりと映りますよね。
 
安藤PA:きっちりと、他は映らない。
 
行定 勲監督:映らないですね。
 
安藤PA:僕の感覚で観るとそれがつまり、90年代を伺わせる映像であるとともに、現在の希薄な関係性、つまり、ワイドになるとツーショットが撮れちゃう、あるいは余白があるってことは、その向こうに何かがありそうな画になってしまう。ところが、スタンダードで撮ると、独りが独りなんですよね。
 
行定 勲監督:その人だけですから。
 
安藤PA:孤独ね、すごく。ふたつをすごい意味合いで相乗効果としていますね。90年代というのを表そうとしたのは、スタンダード・サイズと歌とね。
 
行定 勲監督:そうですね。
 
安藤PA:あまり強調してこなかったですよね。
 
行定 勲監督:強調してないですね。というかね、あのインタビューを入れた理由は、そこにもあるんですよね。インタビューっていうのは、今を生きてる俳優たちなんですよ、この人たちが。これどっちかって言うとこの俳優たちにアドリブ的にインタビューしているんですね。
 
安藤PA:アドリブ的なんですか。
 
行定 勲監督:ええ。彼らはもちろん、この物語の中で知り得る情報以外は、全部自分で作らなきゃいけない。
 
安藤PA:なるほど。
 
行定 勲監督:だから関連的な質問を投げかけると、やっぱり自分の人生と重ね合わせて言うしかないですよね。そこが『リバーズ・エッジ』の原作にね、みんなが共感してるっていう前提があったんですよ。
 
安藤PA:なるほど、それぞれの役者さんが。
 
行定 勲監督:四半世紀前の漫画に何に共鳴するんだろう、と。僕が若い頃、彼らと同じ年代の頃に読んでた本ですからね。じゃあそれをどうするんだっていう時に、君たちの何かを見せてくれっていうことでインタビューを始めたんですよ。使うかどうかわかんなかったんですけど、とりあえず撮ろうと。そうすると、彼らの中に、このキャラクターが血肉化されていって。あと、自分のアイデンティティっていうかね、そういうものの断片が宿るんじゃないかなぁと。
 
安藤PA:これは大成功だと思うんですね。おそらく、賛否両論あるかと思うけど。僕はね、やっぱり虚構を作っているわけじゃないですか。それも90年代の虚構をね。ところがそれを現実に持ってくる時に、実は僕はあのインタビューに、もっとすごい虚構を見たんですよ。つまりインタビューって、普通だと形態としてはドキュメンタリーのようなね。今行定監督がおっしゃったような、かたや役者自身がいて、質問は行定監督の声ですよね。
 
行定 勲監督:はい、僕がやってます。
 
安藤PA:そうするとその感覚がすごく感じられる中で、役者は一生懸命、つまり今、行定監督がこれをアドリブでっておっしゃったんで、すごくそれがわかった気がしたんですが。例えば、そこにある燃えカスのクマを質問するとそれはストーリーの中で二階堂さんは語れるけども、そこから進んでいく、違うインタビューやなんかになっていくと、そこの中ではもう彼女は二階堂ふみと役者ハルナとの間をこう、往復しながら、どうハルナを演じようかという形がありながら、自分自身のことで答えなきゃいけないじゃないですか。
 
行定 勲監督:そうですね。
 
安藤PA:そうすると、そこに自分自身を演じる演技も含めて、すごい虚構が見えますね。つまり行定さんが作ってる虚構のドラマ以上に虚構が見えてね。そうすると、それこそまた寺山さんを引っ張り出してくるけども、虚構の中にこそ、本当の現実があるっていうね、それが見えてくる感じがして。だから、すごく今に感じたんですよ。あのドラマだけの中でも、今を今の閉塞感とすごく重ね合わせてらっしゃるじゃないですか。なんかちょっとした噂を出すと大金が転がり込んでくる、SNSの世界ですよね。
 
行定 勲監督:そうですね。
 
安藤PA:おそらくね。そういう部分の現実との重ね合わせと一緒に、これ全部作り物のはずなのに、行定さんはなんかそうじゃないニュース映像のような何かを僕らに観せつけてるんじゃないかという錯覚に襲われるような現実感が、やっぱり素晴らしい作品として仕上がってるなぁという気がしたんですけどね。
 
行定 勲監督:ありがとうございます。
 
安藤PA:インタビューを撮るとリアリティーが出るんじゃない?みたいなことではないと。そんなバカみたいな表面的な形で撮ってはいないなという感覚が素晴らしいと思いました。
 
行定 勲監督:そうですね、でもね、違和感あるはありますよね。ある意味ね。
 
安藤PA:うん、わざと違和感を持たせたでしょうね。
 
行定 勲監督:何のインタビューだよっていうね(笑)。何のインタビューなのかって言ったら、これはだから、とどのつまり、虚構っておっしゃいましたけども、本当にもう、映画を作ってるわけなんで、映画の監督がこの出演者にインタビューしてるっていう単純な動機なんです。それがそのまま、映画の物語の中に組み込まれるっていう、それが自然にいくかどうかなんですよね。だから、結局編集をするってそういうことで。岡崎京子さんの原作自体が物語っていうストーリーテリングではない、どっちかって言うと停滞したある時期の人たちの、時間の止まってる人たちがそこからどう抜け出すかとか、物語で何かを語ろうとしてるわけじゃないっていうか、ストーリーに頼っていないっていうかね、そういうものなんで。これをこの人たちの群像とか心情みたいなものがある種コラージュされてるんだと思うんですけど、そういうものの中に意外とうまくインタビューが入り込めたかな、と自分の中では思っているんですけどもね。
 
安藤PD:それでそのインタビューの中で、二階堂さんでしたっけ?「生きるってどういうこと?」という質問に対して、二階堂さんが「生きるってことって…」とちょっと考えたりしてて、「感じること」って言ったじゃないですか。つまり「感じること」って言ったのが、彼女たちもそうだろうけど、観てる人も、この映画を観るのは、ストーリーを追うんじゃないよ、理屈を追ってるんじゃなくて、感じることなんだよ、って突き付けられたような感じがしましたね。
 
行定 勲:二階堂ふみは、この映画のある種の企画者の一人なんですよね。彼女がまずやりたいっていうところから始まってるんですよ。僕はそれに声を掛けられて。で、僕は嫌だったんですよ、岡崎京子を映画化するって(笑)。さんざん僕は「漫画を映画化しない」と公言してたんですけどね。それを壊すぐらいの熱量が二階堂ふみから感じられたので、ある種映画人としての後輩の彼女が「手を貸してくださいよ」と、「一緒にやりましょうよ」と言われたときに、それを断るっていうのはどんなもんかなと思いながら、じゃあと向き合ってみて、「こんなもん作りやがって」と傷付けられるのは俺が傷付けられればいいかと思いながら、二階堂ふみのその思いを受け止めるっていうか、形で始まったんですけども。でもやって良かったなと思いますね。自分の20代の、まだ映画を志して間もない頃の助監督だったんですけど、その頃に、先輩の監督たちがこぞって「リバーズ・エッジ」を読んで、「あれを映画化したい、映画化したい」って言ってたんですよ。「この漫画を超えられるはずないじゃんかよ」って思いながら、「俺だったらこう描くんだよ、あれにもっとこういう風に足してさぁ」みたいな。あの漫画を、完璧な…まぁ、完璧かどうかはわからないですね。あの岡崎さんが残した一つの形を映画にトレースするなんていうのは、ホントに愚かだと思ってたんですけど、こういう日が来るとはそのとき思ってなかったですからね。今の時代の人たちが、むしろ二階堂ふみをはじめ、この出演者たちっていうのは、やっぱりみんなが欲してるっていうかね、こういう映画っていうか、こういう話を今、自分たちの中で感じたいんだよ、っていうのがすごくあったと思うんですよね。
 
Q:序盤と終盤の最後のところで、工場のところで煙が出てたりとか、炎が出てたりとか、あとは川に排水が垂れ流されていたり、すごい汚れていたりっていうのは、時代背景を描写したっていうものなんですか?それとも他に意図があったりするんでしょうか?
 
行定 勲監督:これは原作にもあるんですけど、まぁ時代背景ですね。あのときは大気汚染、川も水質汚染ってすごい語られてましたから。で、実は撮影していて気付いたのは、川がきれいなんです。これがね、困ったんですよ。あれ、汚さなきゃいけなかったっていうね、美術スタッフと。もっと大きく、もう「汚れてるのはあそこに行けばあるだろう、あそこに行けばあるだろう」ってみんなで行くんですよね。それは僕らの20年前の記憶なんですよ。行くとね、みんなきれいです。川の底が見えて、捨てられた自転車がきれいに見えてるんです。自転車を川に捨てるじゃないですか。不法投棄するんですね。それがね、きれいに見えてるんですよ。それぐらいきれいになってしまった川があって…。あの時代っていうのは工場も、すごく水質汚染っていうのを変えなきゃいけないっていうね。ということでやっぱり排水みたいなものも、ものすごく気遣ってるんだなっていう。そういう意味ではそういう場所もなくなったねって。全部地下の方に流されて行ったりとかしてるんでしょうか…見えないところにあるのかもしれないですけどね。あれはもう完全に時代背景で、もっと言うと、あの原作にあるロケ場所、多分ここから岡崎さんはスケッチしたなっていう場所を全部巡ったんですけど、その場所もほぼないです。橋だけですね、残ってるのは。あの死体が捨てられているススキがありますよね。本当はセイタカアワダチソウで、あれは埋め立て地だったんですよ昔は。あの辺り、晴海の先の辺りの埋め立て地が多分舞台だったんだと思うんですけど、ちょっとそれが見つからないっていうか。完全に今の時代にやるには相当大変だったんですけど、地方とか色んなところに行って撮影させてもらいました。
 
Q:撮られてる意識だったり、見られてる意識だったりがあんまり好きじゃなかったんですけど、このインタビューの映像を観て、すんなり入って来ました。本当に偶然の産物だったんでしょうか。
 
行定 勲監督:そうですね。あの、本読みをしたときに…本読みってあんまり好きじゃないんですよ。僕は舞台もやるんですけど、舞台をやるときは本読みがすごく重要なんですね。でも映画のときは本読みはあんまり好きじゃない。何かこう脚本がダメなものに感じるんですよね。なぜなら動きもないし表情もないし、言葉だけでとにかく流して行くってね、何か確かめてる感じがあって。すごい違和感を感じたときに、どうすればこの人たちをもうちょっと、欲動っていうか情動、心の動きをもうちょっと言葉に出来るのかなって思ったときに、「あ、これ、ホントは全部台本を取り上げて、そういう場面を口だけで言ってやらせればいいんだ」っていうことに気付くのですけどね。漫画原作があって、原作がある分自由度がないんですよね。やっぱりあの原作をいい形で映画化したいと思う気持ちがあるので、そうなったときに、彼らのアイデンティティというか心の奥底にあるものが何かこう出せればいいんだ、と。そういう意味で言うと、血と肉、血肉化するっていうかね、キャラクターだけやってりゃいいんじゃないよっていうことですよね。だから「色んな質問をするから」っていうところから始めて。「何回かに渡ってインタビューするんで、自分の背景とか自分っていうものを全部常に考えていてね」って。だからずっと怯えてましたね、役者さんたちは。いつインタビューされるかわからないんですよ。最初の方にインタビューを抜き打ちでされた方は、混乱して涙が流れて来たっていうね…。芝居してるんだけど、涙が流れるんですよ。もうどうしていいかわからなくなるっていうね。台本があればそこに乗っかればいいんだけど、そうじゃないのでね。それがみんなに伝わってるから常に自分がこの役にどう向き合えばいいのかってことを彼らは考えながらずっと毎日過ごしてて、突然肩叩かれて、「今日やろうか」って言われるっていう…。だから二階堂ふみは2回やったのかな?で、やっぱり長かったですね。2時間近く回してる。それを知りたければDVDをぜひ(笑)。特典で結構長いやつが入っています。結構色んな質問してて面白いんですけど。それをやらされてたっていうのはありますね。
 
Q:背徳とか死とかに触れながら、それに触れては離れてを繰り返しながら生きて行くってことは『リバーズ・エッジ』を読んでみてまっすぐになって行くんじゃないかと思ったんですけどどうでしょう?
 
行定 勲監督:あんまりね、人ってあんまり意識しないものだよね~。何かそういうのに出会わないと。だからそういう意味では出会っていると思うんですよ。だから今みたいなことをおっしゃるとね、映画っていうのはやっぱりないといけないんだなと。この世の中に。どこかでね、映画なんてなくたって生活は出来るし、生きて行けるでしょ。でもやっぱり映画がないとダメなんだよな、っていうところの感想だな、って今思ったんで。でもその背徳感、映画の主人公が映画で体験してることを、映画の登場人物に影響を受けて、それをそのままやるっていうのはね、あまりにもこれは昭和のヤクザ映画を観て、何だろうな、高倉健がやられそうになったときに銃弾をスクリーンに撃ったっていう、嘘か本当かわからないような話がありますけど、映画って引き込まれるものだったってのがあると思うんですよね。でもそういう意味では何て言うのかな、自分のやっぱり精神っていうかそういうものを形作って行くっていうことの中で、映画で言わんとしてることっていうものを自分たちの中で解釈していただくっていうのは非常に有難いなって思うし、僕自身はあんまり意識しないで生きているのが自分なんだろうな、って思うんだけど、それに気付くっていうことがやっぱり重要だな、って思ってますけどね。答えになってないかもしれないけど。

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