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2018.11.06 [イベントレポート]
「こういう世の中であってほしいという私の願望が投影されている」10/28(日):Q&A 『堕ちた希望』

堕ちた希望QA 
10/28(日)コンペティション『堕ちた希望』上映後、エドアルド・デ・アンジェリス監督、女優のピーナ・トゥルコさんをお迎えし、Q&Aが行われました。
作品詳細
 
ピーナ・トゥルコさん:日本語はひとことも喋れませんが、おそらくみなさんが誰でもわかる言葉を言いたいと思います。Grazie!(ありがとう)。皆さんのお顔からわかるのですが、全く何の疑いもなく、皆さんがこの映画を見て感動してくださったということがわかります。この映画を撮った私たちにとって、大きな感動です。どうもありがとうございます。
 
エドアルド・デ・アンジェリス監督:昨晩、みなさんの街の非常に眺めの素晴らしい場所にいたのですが、そこで非常に不思議なことに自分が家にいるような感覚を味わいました。私はナポリ出身なのですが、ナポリにいるような気持ちを味わったのです。昨夜の終わりに自分たちがいた建物はナポリの中心街の地区を設計した建築家が建てたものだということが分かりました。その地区は私にとって非常に親しみのある地区なのですが、そういうことがあって自分はこの街を非常に身近に感じました。その建築家は丹下健三さんです。ですから、距離というものは人々を遠ざけるものですが、芸術というものは人々を近づけるものだなと感じました。
 
矢田部PD(司会):ありがとうございます。今ナポリのご出身だとおっしゃいましたけれども、この作品もナポリ近郊といいますか、ナポリの近い場所、とても恐ろしく美しい場所であるわけですが、この場所はどのような場所であったかということを監督からお伺いできますでしょうか。
 
エドアルド・デ・アンジェリス監督:この映画の舞台になっているのは、ボルトゥールノ川沿岸に発展した場所です。昔は非常に美しい場所で、比較的裕福な人たちが遊びに来るような場所でした。少しずつ侵され、破壊されていった土地ですが、それでもかつて持っていた美しさを決して失ってはいないんです。この土地では、1平米の中に美しさと醜さが同居していて、破壊されたものとそこに住んでいる人たちが何とかして再建しようとするそういう願望が同居している、そういう土地です。私が非常に磁力を感じる土地なので、そこからいろんな物語が生まれてきます。実際に物語を生むのはその土地であって、自分自身としては物語を作ってからロケーションを探すという考えはあまり好きではなく、ロケーションという言葉自体が好きではないのですが、この土地の場合は土地自身がいろいろなサジェスチョンを与えてくれて、いろいろな人間たちの物語を生み出してくれます。そして、それが自分の映画の人物になっていくという、そういう形になっています。
 
矢田部PD:ありがとうございます。大事な映画の集約の話をしていただきました。早速皆様のご質問、ご感想をお伺いしてまいりたいと思いますが。
 
Q:この映画では赤と青の対比と、時折差し込まれる黄色と白の対比が印象的に使われていたと思いますが、そこに監督はどのような意図をお持ちだったのでしょうか。あともうひとつ劇中の歌の内容は?
 
エドアルド・デ・アンジェリス監督:この映画のことを祈りのようなものだと思っているんですね。祈りとはすなわち反復することですが、私はとても好きで、なぜ好きかというと、一点に集中してそれに無我夢中になって考えあぐねることが好きだからです。そうすることによって、何か物事を正すことができるのではないか、アプローチを正すことができるのではないかと思うのです。ですから私としては、映画の色調についてですが、確かにカラーパレットとして使っているのは青、赤、白、緑ですね。黄色、とおっしゃっていただきましたが、たまたま入り込んだ色かもしれません。
この劇中の歌は、哀歌のような悲しい歌で、ポテト売り、私はポテトを売っているというのをひたすら歌っている歌のようです。
 
矢田部PD:ポテト売りに疲れたという少し悲しい歌、ということですね。
 
エドアルド・デ・アンジェリス監督:彼ら(登場人物)は職を失い、いわゆる知的活動をすることができなくなり、そして単純労働、シンプルな生活を余儀なくされているわけですが、そうした現状を歌っているといいますか、といってもことさら悲しく歌っているわけではなく、非常に軽やかにこのようなにシンプルな生活を送っているんです、ということを歌っている歌です。
 
Q:ロケーションがあってそこから着想を得るというか、アイディアが出てくるという話をしていましたが、今回のストーリーはどういった着想からきたのでしょうか。
 
エドアルド・デ・アンジェリス監督:この地域は定住している人たちというよりも多くの難民が流れ着いて、そこに住んでいるという地域なのですが、そこには沢山の私生児が生まれ、そしてこの赤ん坊たちは消えてしまいます。どこへ行くのか分かりません。そういう現状があります。女性によっては赤ん坊を自ら育てるという選択をする女性もいますが、多くの場合、社会福祉課に預けて、自分はまた路上に出て体を売る、売春を続ける、そういう状況があります。ですから、実質的に彼女たちは自分の体、あるいは仕事から出てきた果実、赤ん坊たち、つまりは我々の未来を売っているということになります。私はこうした話を度々聞きます。ですが、新聞ではあまり報じられない現状です。しょっちゅうあることではないのですが、事実としてこういうことが起こっているようです。イタリアは単一民族と思われがちなのですがそうではなく、多種多様な民族が共存している世界です。私はこうした現状を語りたいんです。それは社会を語らなければならないというよりも、ヒューマンストーリーを語らなければならない気持ちからきています。イタリア社会はこのようにして変わってきました。すなわち、我々の未来は危機にさらされているという危機感を持って私はこの物語を語っているわけです。この映画に出てくる主人公の女性は、女性のみならず、様々な男性の苦悩をも内包したような、そうしたキャラクターになっていて、かつ彼女が生きているこの世界を今起きている現実のものとして描いているわけです。映画の終盤では、こういう世の中であってほしいという私の願望が投影されています。
 
矢田部PD:素晴らしいお答えをありがとうございます。主人公の話を少しお伺いしたいのですが、ピーナさんは今監督がおっしゃった状況、あるいは現場に出向いて何かしら役作りのために取材をしたとか、そういったアプローチはされたのでしょうか。
 
ピーナ・トゥルコさん:この映画を撮るにあたって非常に幸運だったことは、監督が非常に強い考えを持った監督であって、本当のことを言うとちょっとひどい人だったりするんですが(笑)、彼がこの人物を作るにあたっては、強固な魂を持つ人物をイメージしていました。私は映画への愛のためにその人物像を作り出そうと思ったわけですが、もちろん監督は脚本を書きながら人物像を作っていたので、まるで実際に目の前で見ているかのような、そんな感じだったわけです。彼が目の前で見て想像しているものを私も理解しようとしたのですが、それはなかなか難しいことでした。やはりそれだけの強い意志・気持ちを持って見ることはなかなか難しかったわけです。私としては、肉体的、身体的な仕事をして、体でこの人物を覚えるということをしました。この仕事は非常に勇気がいることで、結局、肉体的な動きを覚えた上で、最後にはそれを全部捨てるということをしなければならないわけです。それはスポーツと同じで、練習をした後、全てを体が覚えた上で(動きを)体に任せる、そういう形になるはずだというような仕事の仕方をしました。結果的には、この人物というのは非常にリアルであるとともに、ちょっと魔術的でもあるし、それから非常に人間的な部分も持った人物になるかと思います。私が映画で演じる場合、やはり人物像というのは非常にカギになるものなので、そのよう作っていくことができたと思います。

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