10/27(土)Cinema Athletic 31 映画はスポーツだ!スポーツは映画だ!『42 世界を変えた男』上映前、元メジャーリーガーのマック鈴木さんをお迎えし、トークショーが行われました。
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司会:今回上映する映画はご覧になりましたか?
マック鈴木:3回ほど見ています。2回くらい泣いていますね。
司会:それではその泣きポイントも後程聞いていきたいなと思うので。是非お願いいたします。
さて、改めて皆さんの方がご存知かと思いますがマック鈴木さんについてご紹介させていただきます。
本名は鈴木誠さん。1975年5月31日生まれ。1992年に単身で渡米されて、最初は練習生からのスタートだったのですけれども、順調にステップアップされ、1996年の7月7日、シアトルマリナーズでメジャーデビュー。これは村上正則さん、野茂英雄さんにつぎ、日本人として三人目のメジャーリーガーということになります。1998年、メジャーで初勝利です。その後もですね、メジャーでの移籍、また日本、台湾、さらにはメキシコ、ドミニカ、ベネズエラなどでもプレイをされています。MLBでは通算117試合に登板されて、16勝を達成されました。ということで、簡単な説明で大変申し訳ないですけれども。ご紹介させていただきました。
マックさんは、メジャーリーガーを目指したそもそものきっかけというものを改めてお聞きしたいのですが。
マック鈴木:僕はアメリカに行きたくありませんでした。ただ、高校のときに学校の外で他校生と喧嘩をしてしまって、それがきっかけで学校を自主退学しまして、父親の勧めで、一度人間的に成長してこいということでアメリカ行きを勧められました。
バイトを二か月して、旅費を貯めて、自分でアメリカに渡りました。預かってくれたところがプロ野球のチームだったんですよ。そこで洗濯係の仕事をいただいて、月300ドルで生活しました。月3万円ですよ。
でもまあプロ野球チームだったわけで、身近に野球もありましたから、子供のころからの夢のプロ野球選手になりたいっていうのを、またそこで追いかけさせてもらったんですね。それが、メジャーリーグに挑戦するきっかけになりました。
司会:最初は、お父さんに行けと言われて、ご自身で旅費を貯めていかれたわけですが、英語を勉強できる時間はなかったですよね。
マック鈴木:日本人ですからね。英語は必要ないと思って、野球しかしていなかった子供時代だったのですけれども。
司会:じゃあ、言葉の壁っていうのが、コミュニケーションをとるのに一番大変だったんじゃないですか。
マック鈴木:そうですね。最初は食べたいものも自分でオーダーできませんでしたし、言えないということでストレスはありましたね。
司会:それで、ご自身で飛び込んでいくということですか?周りの方たちに、どんな風にコミュニケーションをとっていったのですか。
マック鈴木:ついていきます。それで、真似をします。それが一番、生きていくので重要かなと思いましたので。
司会:それで色々苦労されて、練習して、頑張って頑張って、いよいよメジャー初登板ってときにどういう心境でしたか。
マック鈴木:やっぱり緊張しましたよ。自分がその場で立ってるってことがなかなか信じられなかったですね。
司会:前の日は眠れましたか?
マック鈴木:いや、リリーフでしたので。いつ来るか分からない状態でスタンバイするっていう。
司会:困ったことで何かエピソードでありますか?
マック鈴木:メジャーではそんなに困らなかったんですけれども、洗濯係のときに、ブリーチとトイレの床を掃除する入れ物が一緒だったんですよ。酸ですよね、酸。
それで、それを間違えて洗濯機に入れたんですよ。そしたら洗濯機から煙がモコモコモコ~と出てきて、試合用のユニフォーム15着ぐらいがぐちゃぐちゃになってしまったんです。それで強制送還にさせられそうになったことが一番…(笑)
司会:大事件が起きた練習時代ということですが。マックさんは本作を3回ご覧いただいているということで、ジャッキー・ロビンソンご本人をご存知だと思いますが、本作品のイメージとしてはどうですか?
マック鈴木:当然お会いしたことはなかったのですが、どういったことをメジャーの野球界に貢献された方かっていうのは、僕は聞いていましたし、当時僕がアメリカに渡った時は韓国のピッチャーのパク・チャンホと僕しかいませんでした。ですからアジアから二人、メジャーリーガーに挑戦するということで、当然ジャッキー・ロビンソンのヒストリーなどの勉強もしましたし、そこで一番心配なことは差別でしたね。中南米の選手とか、いろいろカナダの選手も当然いたのですが、ほかの国からアメリカにきてプレーをするにあたって、やっぱり最初に差別とかの問題を解決したというか、ぶち壊してくれたというか、そういう先駆者の方ですから、やはり尊敬というか感謝の気持ちはずっと持っていました。
司会:ジャッキー・ロビンソンさんがいなかったら本当に、今は違うかもしれませんがもっと遅かったかもしれませんよね?そういった受け入れというか…
マック鈴木:たとえでお話しさせていただきますと、僕は野茂さんより3年前にメジャーに挑戦しています。アメリカに渡る道を。知っていました?知らないでしょ?野茂さんのほうが先だと思っているでしょ?僕が高校を辞めてアメリカに渡りました。そこで団野村さんと知り合いました。僕がマリナーズと交渉しているときに団さんに通訳として入っていただきましたが、マック鈴木の代理人を連れてきなさいと言われました。そこで団野村という人間が代理人の免許を取ったわけなんです。それで、その年オフシーズンに神戸に帰りました。練習場も藤井寺を使わせていただきました。そこで団野村さんが野茂さんを紹介してくれることになり、つながったわけなんです。ですから、僕が行っていなかったら?
司会:野茂さんは?
マック鈴木:行っていない!ということは、イチローさんもダルビッシュも行っていないかもしれない!
司会:ということはやっぱりマック鈴木さんはパイオニアでございます!(拍手)
マック鈴木:ただ、先駆者で言いますとマッシー・村上さんが日本人では一番最初にプレーされていますから僕の中では先駆者、パイオニアはマッシー・村上さんだと認識しています。
司会:(日本野球界を経験せず)ダイレクトにMLBにいかれたのは、
マック鈴木:まあそうですね、アマチュア…日本野球界を経験せずには僕が初めてなんですけども、まあ、正規のルートでいっていませんから
司会:いろんな苦労があったのではないかと思いますが、とっても陽気な方なのでお話ししていると。
マック鈴木:もう陽気じゃないとやっていけないぐらいの遠征の距離なんで。バスで27時間とか言われるんですよ。
司会:一日過ぎてますよね。
マック鈴木:そうなんですよ。だから私は芸人の小原正子さんと結婚できるんです。まさかメジャーリーガーになってね、お笑い芸人さんと結婚するとは思わなかったですよ(笑)だから今は幸せです。
司会:ごちそうさまでございます。。「まっく すてっぷ じゃんぷ」というブログをいつも見ています。
マック鈴木:僕がメジャー挑戦したじゃないですか。でも、みんなどんどん僕を抜いていくんですよ。マックをステップにして、ジャンプしていくので。アメブロでのブログ名を「まっく すてっぷ じゃんぷ」にしたんです。
司会:ありがとうございます。さあ、これから皆さん映画をご覧になったばかりですので映画のご紹介をさせていただこうかなと思います。ジャッキー・ロビンソン、1919年の8月31日生まれのアメリカ合衆国ジョージア州生まれですね、非常に貧しい生活を強いられたということなんですが、1945年に当時のニグロリーグでプレーを開始して活躍が認められてブルックリン・ドジャース、現在のロサンゼルス・ドジャース、現在のマイナー契約をしました。で、47年の4月15日、ついにメジャーリーガーとしてデビューを飾ったということですね。人種差別というか根強く残っていたメジャーリーグにおいて奮闘しましてすばらしい成績を残しました。ジャッキーロビンソンの背負っていた42という背番号、現在メジャーリーグ全国球団永久欠番ということになっています。4月15日には皆さん42番をつけて試合をするということですが、間近でご覧になったことは?
マック鈴木:僕が最後にメジャーでプレーしたのは2002年ですね。その後に、このジャッキーロビンソンデーに「42(forty-two)のジャージ」を着るというのができたので、僕は着させてもらったことはないです。
司会:映画を見ると本当に皆さんが42番をつけてっていうチームも出てきたりするんですが、映画をご覧になって、何回もご覧になっているということですが、特にさっき2回泣いたとおっしゃっていましたけれどもどんなところが印象に残っていますか?
マック鈴木:僕が一番感動したのは、大好きな野球を白人黒人関係なく同じスポーツをするのに黒人というだけで差別をされて我慢強く耐え抜いてその耐える姿をチームメイトから支えられるようになって理解してもらってという人間同士が心通じ合うというところが僕にもそういう経験があったのでやっぱりそこが一番感動しました。
司会:映画の中にも出てくるんですけれども、候補者はほかにもいたっていうのはマックさんにもお聞きしたんですけれども。
マック鈴木:実力で言うとジャッキー・ロビンソンよりも全然レベルが上の選手はたくさんいました。経験もたくさん積んでいる選手もたくさんいたんです。でも、どうしてロビンソンが選ばれたのかといいますと若い。若いということは頭が結構柔軟ですから、白人の社会に出てもいろいろ対応をうまくしてくれるんじゃないかということ、すごく素晴らしい性格の持ち主だったものですから、当然ニグロリーグでも野球をやっていましたから、プロとしても素晴らしいものを持っていたんですけれども、性格を第一にして白人社会の野球の壁をぶち破ってもらえるような素質があったからこそロビンソンを選んだっていうふうに僕は聞いています。
マック鈴木:ですから、映画の中でも何度も彼が心を閉ざしてしまいそうになったりとか、気持ちが消えてしまって、暴力的になるっていうような場面はあったんですけども、そこをしっかりサポートもありながら我慢できたというところが素晴らしいなと思いました。
司会:罵倒されてもやり返さない勇気っていうのは、なかなか出来ないと思うんですよね。
マック鈴木:当時、僕がね、アメリカでプレーしてたときもマイナーもメジャーもそうなんですけれども、アジア人慣れをしてないお客さんたちがほとんどですから、アジア人が野球場に何しに来たんだとか、日本人も韓国人も中国人も、同じように見えますからね。差別的なことを言われたりとか、チームメイトからもありましたし。そういうことはありましたけれども、でもそこで野球がしたいっていう気持ちのほうが強かったですから、僕は別になんとも思わなかったですけどね。
司会:ジャッキー・ロビンソンもやっぱり野球がしたい。だからその勇気を持った、そういうことですよね。あの奥さん役の方もすごく良かったですよね。ハリソン・フォードとかもみんな良かったですよね。奥さんのやっぱり支えがあって、家族の支えっていうのが大事だと思いますが、マックさんも今家族の方に、支えられてると思いますが。
マック鈴木:そうですね。子供2人授かって男の子が2人いますけども、親になって初めて行動を何か起こす前に考えるようになるというかね、自分をしっかり律するというところは出来るようになったかなと思うんですけれども。
司会:マックさんは今、何かスポーツされていますか?
マック鈴木:僕はもう今指導者の立場なので、何かしてるっていうのはありません。太っても良くないのでさすがにジムには行くくらいですけど。
司会:ありがとうございます。本当に興味ある貴重なお話をしていただきましてありがとうございました。では最後にひとことお願いします。
マック鈴木:今日はですね、住まいが神戸なんですけれども、朝一に東京に入りまして、「六大学野球」早慶戦を解説してきました。僕は中卒なのに、六大学の野球の解説をするという、逆立ちしても入れない大学の解説してきました。家を出るときに、携帯を忘れてしまいました。で、今携帯持ってないんですけれども、映画を観るときは携帯は必要じゃないと思うので皆さん、携帯はオフにして、じっくりこの素晴らしい『42 世界を変えた男』をご鑑賞いただければなと思います。今日は本当にありがとうございました。