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オープニングイベント・レッドカーペットに登壇したエドアルド・デ・アンジェリス監督と女優のピーナ・トゥルコさん
10/26(金)、コンペティション『堕ちた希望』上映後、エドアルド・デ・アンジェリス監督、女優のピーナ・トゥルコさんをお迎えし、Q&A が行われました。⇒作品詳細
エドアルド・デ・アンジェリス監督(以下:監督):東京国際映画祭に呼んでいただき大変光栄に思います。実は昨夜、人間としてもプロとしても非常に優れた監督であり友人である、ミケーレ・カリッロ(Michele Carrillo)さん(享年42)が亡くなりました。ミケーレさんに黙祷を捧げることができればと思っております。
矢田部PD(司会):監督にとって非常に大切な存在であり、映画史にとっても重要な監督に一分間の黙祷を捧げたいと思います。それでは、黙祷。
矢田部PD:皆様、ありがとうございました。
エドアルド・デ・アンジェリス監督、参加してくださって改めて感謝申し上げます。主演のピーナ・トゥルコさん、今回東京にいらっしゃったご感想を一言お願いできますか。
ピーナ・トゥルコさん:何よりもまず、心からありがとうございますと言いたいです。皆さんの顔を見て、気に入っていただけたのではないかと感じております。
この映画を通じて、国境を越えることができ、世界中を旅することができ、皆さんを近くに感じることができ、同じ人間だということを感じられ、ありがとうと言いたいです。非常に温かい気持ちで迎えてくださってありがとうございます。
東京は初めてなのですが、皆さんに温かく歓迎していただきました。イタリア人は歓迎上手と言われるのですが、日本人も素晴らしく歓迎が上手でした。
矢田部PD:ありがとうございます。エドアルド・デ・アンジェリス監督にお伺いします。今までの作品も監督のご出身地であるナポリを舞台に作品を撮られてきていると思います。今回はナポリの北西の海岸沿いの、ちょっと信じられないような場所を選ばれたわけですが、その理由、そしてこの物語をどのようにして思いつかれたか、その背景をお伺いできますでしょうか。
監督:私は、この映画の舞台にあった場所からあまり遠くない場所で生まれたのですが、『PEREZ.』という映画を撮った時に見つけました。
ずいぶん昔に後にした場所に、再発見することができました。
この場所は非常に荒廃していますが、かつては非常に美しい場所でした。今でもその美しさを感じることをできますが、非常に荒廃しています。
この土地を離れること、捨てることができなくなったのですが、どの場所をとっても、美しさと醜さがそこにはあって、破壊と、そこを立て直すという気持ちが全部共存している場所です。
矢田部PD:実際にあのような少し無法地帯と化してるような現実というのでしょうか?
それとも、あの部分は監督の作られたフィクションなのでしょうか?
監督:残念ながら、これは実情を描いた部分です。例えばドミティアナ街道ですとか、あるいはヴォルトゥルノ川の川沿いというのは、売春宿があったり、売春を働く女性たちがたくさんいるそうです。
われわれは忘れてはいけないと思います。あの幕の後ろでどういうことが行われているのか。彼女らは奴隷なわけですから、これは忘れてはならない事実だと思います。
矢田部PD:この映画の中のヒロインを見事に演じていらっしゃいますが、どういう準備をされて臨まれたでしょうか?
ピーナ・トゥルコさん:非常に難しい仕事でした。
監督として非常に要求するものが多くて。それは彼の人物…人物に限らず人間に対してもそうなんですが、非常に愛する気持ちが強いのです。
実際の準備は撮影の数か月前から始まったのですが、身体的、肉体的な部分から仕事を始めました。それはストレスのかかるものですが、ストレスがかかったことによって非常に大きなものを得られました。
その身体的な作業をすることによって、自分の体に仕事を放り込む、体を作り出す作業になるわけですが、それができてからは、体が人物を記憶するわけなので、役者の仕事ができるようになる、掘り下げていくことができる、それで人物造形をしていくことができるようになりました。
エドアルドと一緒にその愛をもって、彼の演出とその愛を持って人物を作り上げることができました。
Q:作中にいろんな音楽が流れて、心理状態やシーンに合っていたと思うのですが、実際はどのような内容の歌詞だったのでしょうか?
監督:「真実が訪れるだろう」というタイトルなのですが、長い旅をしてボロボロの靴になって、だけどその果てには真実があるだろう、そういう内容の歌です。
矢田部PD:音楽はエンツォ・アビタビレというイタリア出身の世界的な音楽家が手がけていて、ジョナサン・デミ監督がドキュメンタリー映画を作っているくらいの音楽家なんですけども、彼とコラボレーションするようになった経緯もお伺いしましょう。
監督:彼との協力は、前作『切り離せないふたり』の時、2年前に始まったのですが、テーマを決めてやるというのではなくて、実際に旋律を聞きながら曲を作っていくという形でした。エンツォは非常にたくさんの宝物を持っています。宝物というのは曲のことなのですが、彼が持っている曲の中から、自分がいろいろ感じられる曲を使わせてもらう、そういう協力になっています。台本を書きながら、その時に音楽を書いてもらって、撮影しながらもまた曲を書いてもらって、さらに彼が持っている曲を、自分が聞いた曲を使わせてもらうという形です。
Q:タイトルバックの後のシーンはどう捉えたらいいでしょうか。
監督:人生でこんなことも起こったらいいなと思うのは、私たちが寝ているときに毛布をかけてくれること。神様かもしれないし、誰かが毛布をかけてくれるということです。
Q:あえて男性を売春宿の女性から遠ざけたところにしか配置しなかったのは、どのような意図があったのですか。
監督:自分自身が3人の女性に育てられたということがあり、家族を考えたとき、その世界を考えたとき、どうしても女性を中心に考えてしまうというところがあります。それを別にしても、この映画では、男たちがいなくなった、消えてしまった、自分たちが役割をなくしてしまったという世界を描いてみたかったわけです。
ある女性がやってきて、一人だけ残った男の耳をひっつかんで、彼がやるべきことをさせるということ、最終的に男の役割は何かというと、女性を助けるということだと思うのです。この映画の中では、マリアは女性なのですが、単純に女性ということだけではなく、人間であり、男でもあることをも意味しています。それは希望のない人生を生きている男たちなんですけども、それがいつしかいろいろなことの秩序を取り戻すことができるような、そういうような生き方をしています。
このような質問をしていただいたので、ぜひこの映画を考える上で、こういうふうに解釈して欲しいということがあります。単純にこの人物たちを男性、女性と捉えるのではなくて、その人物一人ひとりが持っている意味ということを考えていただきたいと思います。彼らは希望をなくした人間たちであって、それからもうひとつには、希望を持たないようにしている、希望の悪癖、というようなタイトルなのですが、希望という悪癖に侵されないように注意している人たちの物語なわけで、彼らは寒い冬を生きていて、そこは死と隣り合わせなわけですが、そこで火を灯すことによって、新しく生まれ変わり、再生へと繋がっていく、そういった物語になっていると思います。